Sacred Heart. Immaculate Heart.

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Sacred Heart.
イエス様の聖なる心臓(聖なる心)
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Immaculate Heart.
聖母マリアの汚れなき心臓(汚れなき心)

イエスの聖心(みこころ)
聖心の信心は、その神の愛の深さ、広さ、長さ、大きさ、温かさを教えるもの。

イエスの聖心とは、具体的にはイエスの心臓のことです、図柄としては茨で傷つけられながらも火が燃え上がる形で描かれています。これは、「罪に傷つけられた心」と「それでも燃え出でる神の愛の力」を意味していてます。

この聖心の信心は13世紀以降、様々な神学や信心業と結びあわされて徐々に形作られていった信心ですが、近代においては、1600年後半の修道女マルガリタ・マリア・アラコクへの幻視を基に形成された。彼女を通して知られるようになった信心の実践は、聖体拝領を頻繁に受けること、特に月の第一金曜日(初金)に神の愛を覚えて聖体拝領に与ること、そして聖時間という1時間ほどの祈りの時間の実践でした。

つまり聖体拝領に与ることを極端に避けるというのは、自らの罪による遜りではないのです。人間の罪よりも神の愛の大きさがはるかにまさり、はるかに大きく、はるかに深いことを、否定することであります。確かに人間は罪の現実から自由になれない存在であるし、いとも簡単に罪とわかっていてそれを避けることが出来たにもかかわらず、避けない、つまり、自由意思に基づいて罪を選びとる傾きはあります。しかし、その罪の現実に気づく時、胸を痛める時、もうすでに、罪よりもはるかに大きく深い神の愛の現実に包まれているのです。

本題の、「神のいつくしみへの礼拝」ですが、この信心業は1930年代のポーランド修道女マリア・ファウスティナへの幻視に基づいた信心業です。ファウスティナはイエスの姿を見るのだが、そのイエスの胸元からは赤と水色の光が放たれている。これは十字架につけられた時にさし貫かれたイエスの聖心から湧き出でた血と水である。ファウスティナとイエスの対話のなかでイエスは「この二つの光は水と血を意味しています。青白い光は霊魂を義とする水、赤い光は霊魂の生命である血を意味しています。この二つの光は、十字架上で死にかかっていた私の心臓が槍で開かれた時に、私のいつくしみの中から流れ出た。この二つの光のもとに生きる人は幸い、神の正義の御手は、この人を捕らえることがないからである」と言ったそうです。

どうですか?聖書だけ読んでいても、宗教団体などに属さなくても祈りも修行も出来ます。何故なら神は「信じるこの世の命ある、あらゆる生き物の心の中におられます」。実態がないから信じられないというのは心が疑うさもしい考えではないでしょうか?科学ですべてが解明できますか?


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