信仰は自由ではあるが唯鵜呑みにすることが信仰ではない

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自分には信仰がある。別に誰かの強制や洗脳による信仰ではなく神の言葉が聞こえた気がしたんだ。猫という媒介を通して。その頃の自分は愛する伴侶になるべき人に先立たれ失意のどん底にいた。酒浸りの毎日で身内が会社に事情を届けて仕事は休職扱いであった。言葉では分かっていても愛する人の死を受け入れられず自分でももう駄目だと思いながらなすがまま酒に溺れていた。そんな時に自分にいつも寄り添っていてくれてた母の猫が「もうあなたは十分苦しんだ、もう愛する人の死を受け入れなさい」と喋った気がしたんだ。自分には神が救いの手を差し伸べてくれた気がした。

自分は聖書研究者と言うべきでどの会派にも属してない全くの個人信仰だよ。教会に行くけどそれは出入り自由の教会で特に神父さんから勧誘を受けたこともなく唯祈りを捧げて心ばかりの寄付をさせて頂くだけ。逆に言えば勧誘するような宗派の教会などで祈ろうとは思わない。

「信仰とは教えに対する真理の探究、これが自分の信仰の基本精神なのだよ」
神は唯一無比の存在です。キリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラム教他さも神の教えが沢山あるかのように乱立するこの御時勢、おかしいと思いませんか?それでは神様が沢山いらっしゃるみたいじゃないですか?
問題はそんな新興宗教団体の多くの信者が全然おかしいと思わないのです。唯勝手に神の教えを捻じ曲げたまちがった教えを疑いもしないでまるで洗脳された生き物のように一心不乱に祈ってるだけなのです。そりゃあ何も考えずにただ身をゆだねていれば楽ですよね。ただ団体の言う通りにしていれば勉強しないで済むんで楽ですよね。
実は自分のところにもキリスト教系の某団体が勧誘に来た事有りますが聖書のイザヤ書42-8をどう考えますか?の自分の問いに答えられなかったというより全く知らない。これが信者の有り方ですか?聖書を団体で発行しておきながら信者に読むことを率先しないで勧誘に力を入れている「正に偽善者」としか言いようがありません。
本来信仰というものは入門が修行の始まりなのです。聖書を取ってもひとつひとつの言葉の真理を正しく理解して神が何を教えようとしているかを極める事が修行の道です。決して教祖の演説を鵜呑みにしてただ言う通りすることではないのです。

この話は長くなりますのでこれで最後にしますが「聖書のこの教えは間違っている」これこそ本来の修行であり本来の信者の姿なのです。何故なら聖書ひとつ取っても作為的解釈の違いや謝った翻訳があり一度ヘブライ語の元聖書を読解する必要があります。つまり古き時代より聖書自体も作為的に勝手な解釈を盛り込まれていたのです。それを正しい姿に復元して神の正しい教えを伝えることこそが信者の修行であり務めなのです。
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