海潮音拾遺 上田敏訳 トゥルゲニエフ

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一僧 トゥルゲニエフ 


 わが知己に一人の僧ありき――世を遁のがれ、行ひすましぬ。ひたぶるに、祈祷を淨樂として、一念これに醉ひぐれたれば、精舍のつめたき床にたちても、膝より下の、ふくだみて、全身、石柱をあざむくに至るまで、ひるまざりき。すべてのおぼえ、うせぬるまでも、そこに佇みて祈り念じぬ。
 この人の心、われよく識りぬ。こゝろ妬ねたくさへおもほゆ。彼また吾を解げしたれば、おのれが悦よろこびにえとゞかねばとて、卑しみ果つることつゆなかりき。
 この人は、憎むべき『我が』をほろぼしつ。しかはあれど、吾の祈りえざるは、あながちに、唯たゞ我がのたかぶりあるのみにあらじよ。
 わがもてる『我が』は、この人のもてる『我』よりも、更に重くして、更に憎々しかるなり。
 おのれを忘ばうずる術、かれ、既にみいだしぬ。われもまた、いつも/\といふにあらねど、『我』を脱離する法を悟れり。
 彼は、矯飾の徒にあらず、われまたさにあらじかし。
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